社長ブログ

社長ブログ特別編 第一回

2010.07.16

明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~
「はじめに」 イザベラ・バードとアルカディア
◇東洋の桃源郷
 「アルカディア」ということばは、山形県民にとって親しみがある。「桃源郷」や「理想郷」「美しい田園」「牧歌的な楽園」などと訳されて、「住みよい土地」「働きやすい地域」「微笑する大地」などの愛語になっている。山形県では第7次総合開発計画(1985年)を「新アルカディア構想」と名付け、活力ある県土づくりや地域計画のキャッチワードに用いている。また「山形~大阪」間の高速バス「アルカディア号」等の愛称にもなっている。
 そもそも「アルカディア」とは、元来ギリシャ南部のペレポネソス半島の山岳地方の地名である。それが、古来より西洋の多くの小説や詩歌に牧歌的理想郷の代名詞として描かれ、牧人の楽園と謳われてきたのである。
 その「アルカディア」を「山形の地」だと褒め称えたのが、イギリスの女性旅行家イザベラ・バードである。横浜から北海道への旅の途中、1878年(明11)7月、越後米沢街道を歩いて次のように記している。
米沢平野は、南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくのエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカディア(桃源郷)である。
自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。彼らは、葡萄、いちじく、ざくろの木の下に住み、圧迫のない自由な暮しをしている。これは圧政に苦しむアジアでは珍しい現象である。それでもやはり大黒が主神となっており、物質的利益が彼らの唯一の願いの対象となっている。美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。
<「日本奥地紀行」高梨健吉訳 平凡社 P152~153>

 筆者バードが旅した1878年(明11)7月は、大久保利通暗殺事件の直後であり、勤王方と幕府方が日本全土で争った戊申戦争からわずか10年、西郷隆盛の西南の役の翌年である。日本の政治情勢は、まだまだ落ち着いてはいなかった。文明開化は一部の都市で拡まりはじめたものの、地方特に東北や北海道はまだまだ江戸期と変わらない状況であった。
 バードは47歳、「ほんとうの日本の姿を見るために」と、まだ18歳の通訳者伊藤鶴吉だけを連れて、6月からの約100日間、未整備の道路を馬や徒歩で旅した。その時の旅行記録「UNBEATEN TRACKS IN JAPAN」を、ロンドンで旅行2年後の1880年(明13)に出版した。たちまち3刷りとなった。その頃のイギリスビィクトリア朝は、大英帝国として世界各地へ進出し、国民は海外の情勢や旅行の報告に興味関心が高まっていた。特に、当時の女性が海外で一人旅するのは稀であり、バードが描いた文明化されていない日本のようすが魅力的であったからである。
 この著書を初めて日本語に翻訳したのは、当時慶應義塾大学教授の高梨健吉氏(山形県川西町出身)である。1973年(昭48)「日本奥地紀行」として平凡社の東洋文庫であり、ロンドンでの出版から93年後である。日本人の読者は、明治初期の日本の姿を外国人女性が見聞した記録に評判が高まった。
 小生が「日本奥地紀行」に出会ったのは、翻訳まもない小学校教師駆け出しの頃である。当時の山形大学米地文夫先生から「明治期を語る貴重な本だ」と勧められた。小生は、バードの大胆な行動力と鋭い観察力、巧みな表現に感心した。即ち、明治初期の人々の住居、衣服、食べ物、風俗、道路や橋、植物や作物、自然環境等が克明に記録されている。その場で見聞し体験しながら、まるで実況中継しているかのような描写である。
 そして小生は、次のような素朴な疑問をもった。
◎バードが開国間もない東洋の日本を訪れたのは、なぜなのだろう?
◎明治初期において外国人女性の一人旅が、無事故で完遂できたのはなぜなのだろう?
◎最終目的地が蝦夷アイヌ村なのに、新潟から日本海の浜街道を通らずに山形に向かったのはなぜだろう?
◎アルカディアと讃えられた置賜の地は、他地域とどのような違いがあったのか?
 そのうちには、バードが辿った古い街道と峠に刻まれた足跡を訪ね、これらの疑問を解明したいとずっと思ってきた。しかし、その機会はとれず、40年の歳月が過ぎていた。
◇バードの足跡調査に挑戦
 2009年の4月、山形新聞記事「はるかなる道イザバラ・バード文学散歩の旅 山形路紀行200㎞」(企画「元気・まちネット」矢口正武代表:東京都)の誘いに胸がときめいた。前年も同様の企画があったが日程がとれず、悔しい思いをしていたのである。今回は「チャンスは逃すな」と、早速事業実施の山新観光(株)に申し込んだ。
 この山形路紀行には、山形のみならず東京、横浜、札幌、仙台等から30名が集った。文学作品の散歩として、昔の峠や古道の散策として、キリスト教布教の問題解決として等々、バードや昔の街道に興味をもち人生を楽しんでいる方々が参加していた。
 小生は、仲間と一緒に実際に峠や古道を歩いて、バードの紀行文は明治初期の国土の景観や自然、人々の生き様や生き方を知る上で貴重な資料であり、文学作品としてだけでなく民俗・歴史・地理資料として十分な価値があることを再認識した。
 また各地域の方々は、最近峠の石畳を掘り起こし、復元・保護し道端に案内板や標柱を建てている。またバードや街道に関する研究会を開いている。地域興しのひとつの役割を果たしていると感じた。自分の住む地域に愛着をもつことは、ふるさとの歴史や文化・自然環境を実際に調べ、自分のルーツやアイデンティティを確認していく過程を通して、日本人や自分、ふるさと郷土や地域のよさを誇りに感じ高まっていくのであろう。
 この旅行後に、バード自身のことや紀行文の内容に新たな疑問が湧出して、更なる興味・関心が出て疑問点を解決しようという意欲が高まった。更に、道路事情が大きく変貌している今日、バードの足跡を新旧の五万分の一地形図に再現しておきたい、との思いも強くなった。
 そこで、自分なりの7つの疑問点を解くために、山形県立図書館や山形大学附属博物館、横浜開港資料館、文献、地図等で調べ始め、各地の郷土史家やバード関係者を訪ねた。目で見る資料やバードの旅の様子を語る史料の発掘に努めたが、残念ながら当時の写真は少なく新しい発見は少なかった。しかし、これらの調査活動を通して、ひとつの課題解決で新たな疑問をもち、多様な追求となり多くの方々との出会いがあった。正しく「学び」の連続である。
 その結果、バードは旅を通して、自然や人々の社会生活を観察する卓越した博学と感性を身につけ旅慣れた「女傑」であること、異国に融け込もうとその土地の人々に温かく接し友愛の精神で国際協調を実践した「国際人」であること、そしてバードが来日しその後世界を駆けめぐったのはイギリス諜報部員「007」だったのでは、と思えてきた。
 現在の小生は、家族から飽きられる程のイザバラ・バードの虜になってしまった。バード追跡は、まだ一過程であり不備なことも多く、この段階での公開にはためらいもある。しかし、バードに関して私なりの考えと山形路の足跡を新旧の地形図で比較し、お読みいただいた方からご批正等を受けて、今後の追求に活かしていきたいと考えている。
 そこで、【明治の「007」イザベラ・バードと「バード・ウオッチング」~「山形路」の街道足跡を辿る~】と称してまとめてみた。

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